─────使えぬ者は、我が曹魏にはいらぬ

 
 何度も反芻しては、何故だ、とひとりごちた。
 一体自分の何が、あれほどまでに彼の気に障ったのだろう。
 
 議場での、曹丕の突き放すような眼差しが脳裏を掠める。
 その原因が分かったところで、事は何も変わらないかもしれないが。

(・・・・・潔く秀吉様のもとへ帰れ)

 そう、自身に命じた。
 
 しかし意思とは裏腹に、肢体(からだ)の方は従おうとはしない。
 気がつくと、正殿と内殿の蝶番となっている庭院へと足が向いていた。
 
 水面(みなも)が揺らぐ度、日の光を反射しながら小流が庭園を廻る。泉池の畔岸には、赤塗りの四阿(あずまや)が見えた。
 築山は悠然とその裾を広げ、華柳がぐるりとそれを囲んでいる。仲春の今、咲き揃っているあの白花は、梨の花だろうか。

『桃紅柳緑、風光明媚』

 形容するとすれば、そんな麗句が相応しい。常から目にしているとはいえ、手入れが行き届いた自然の造形美はやはり心に訴えるものがある。
 倹約を尽くした佐和山城内では、決して見られない景観であろう。


「どうかなさいましたか」

 
 背後から唐突に声をかけられ、三成は小路を挟んで反方角を─────つくづくここの庭院は広いと思うのだが─────振り返った。


「お市様・・・」


 植え込みの陰から、陶磁の水差しを持った市が姿を見せる。

「確か今は、本殿で軍議が開かれているはずでは」

「・・・・・いえ、ただの気晴らしです」

 咄嗟のことに、どう取り繕えばよいか分からなかった。我ながらかなり苦しい言い訳だとは思う。
 だが、そうですか、と市は答えただけで、別段気に留めたようには見えない。

「お市様は、何を」

(わたくし)ですか?─────花たちに、水を」
 
 そう言って市が示した先には、綻び始めている紅の花が一面に広がっていた。

「戦が始まってしまう前に、長政様にご覧いただきたいと思ったのです」
 
 本当は、花開いた時が最も綺麗なのですが、と市は付け加える。彼女の表情は晴れやかで、幸福感に満ちていた。

「それほどまでに仲がよろしいと、喧嘩もされないのでは?」

 三成の問いに対し、はい、と市が迷いなく首肯する。

「・・・・・羨ましいですね」
 
 思わず零した三成の独白を、市は聞き逃さなかった。

「三成は、誰か親しい方と喧嘩をなさっているのですか?」

「あっ、いや・・・・・おねね様と秀吉様の話ですよ。いつも揉め事に巻き込まれて、困っているんです」

 じっと、市が何か言いたそうに顔を見つめてくる。
 嘘言を見透かされそうで、三成は視線を逸らした。


「─────この虞美人草は、さぞ美しく咲くのでしょうね」

 不意に膝を折った市が、まだ破蕾しきっていないそれを眺めながら呟いた。
 話の意図が分からず、三成はただ閉口する。

「ですがこの子たちもその名のように、市の寵愛を受けてきたからこそ」
 
 ですから、と市は三成に向かってやんわりと微笑んだ。

「ご自身が気付いていないだけで、本当は、思っている以上に愛されているものなのですよ」

「なっ………!」

「そう市が申し上げていたと、ねね殿にお伝え下さい。
─────もっとも、ねね殿でしたら、このような諌め言は必要ないと思いますが」





 暫く庭園をぶらついてから三成が正殿へ戻ると、朝堂内には誰の姿も見当たらなかった。朝議はすでに閉会の銅鑼が打たれ、官吏たちは政務のため外殿に移ったようである。
 動もすると、自分が議場の和を乱したせいなのか。

(・・・いや、それはないだろう)

 曹丕のことだから、あの後も淡々と軍議を押し進めたに違いない─────
 陰気な考え方だ、と自身を叱咤しながら、三成はふらりと朝堂の表へ出た。
 
 皇帝、将官、諸省長官が立つべき露台。壇上に立つと、陣間(ひろば)の様子が一望できる。
 幾枚も幾枚も永続的に敷かれた板石。その三方を堅牢に取り囲む、断崖のごとき城郭。遠目ながらも、正面には荘厳な正殿門が望めた。

(・・・あの時も、)



─────覇道は未だ道半ば。私が為さねばならぬ


 
 この広大な陣間を眺めながら、曹丕の横顔に一抹の憂慮を覚えながら、自分は自身に誓ったはずだ。

 
 許される限り傍にいて、曹子桓の『道』を見届けてやろう、と。

 ただ、一つだけ違うのは、今は隣にはいれないということ。
 
 
 三成は石段に腰を下ろした。


(もう、ここからの景色も見納めか)

 
 脳裏に焼き付けておきたかった。
 湧き起こる感情と共に、記憶の中へしまい込んでしまえるように。



─────屈強な威光を放ち、見据えているのはただ一点のみ。
 
 只管なその眼差しには、何が映っている?
 
 肩を並べたら、自分にも同じものが見えるだろうか。
 
 ・・・いや、寧ろ、


 その視線の先に立ったならば、果たして自分は目に映るのだろうか。 







 ただぼんやりと、走馬灯のように巡る記憶を眺めていた。
 
 曹丕と共にいるのは、もう一人の自分。
 
 互いに背を預け、勝利を分かち合った戦場。
 夜風を感じつつ、次の策を共に講じた宵。
 
 断絶的で、入り乱れていて。とても奇妙な感覚だった。


─────三成

 
 突然、記憶の中の曹丕が、こちらに向かって名を呼んだ。傍観者であるはずの自分と彼の目が、確かに合う。
 やけに生々しい声だ、と思った。頭の中で、それが執拗に響く。
 
 曹丕の顔には、笑みが浮かんでいた。
 そんな表情、一度も目にしたことがないはずなのに、何故か無性に懐かしく感じて。涙が出そうになった。
 

(曹丕・・・俺は、俺は・・・・・・)


 だが、声を出すことができなかった。側に駆け寄りたいが、身じろぎ一つすることができない。
 咄嗟に、それこそ本能的に、全身が意識を引き出そうと働きかけ─────

 
 そこで、三成は目を覚ました。


(・・・いつの間に・・・・・)
 
 どれほど寝てしまっていたのだろうか。すでに日は西へと傾き、空気は冷え込み始めていた。
 朱色の天鵞絨(ビロード)を広げたような天を背に、正殿門大棟の輪郭が、金色(こんじき)の細い糸でくっきりと浮かび上がっている。
 
 左右を見渡しても、彼の姿は見当たらなかった。

(夢、か………当然だな)
 
 いい加減、こんな女々しい自分に嫌気が差す。
 腹の内で自嘲すると、三成は荷をまとめに戻るため腰を上げた。

(─────あれは・・・)

 朝堂の外壁に、人の姿を認める。背を支柱に預けたまま腕を組み、顔を下げていて表情は窺えない。
 
 だが、見えなくとも、誰であるかは直ぐに分かった。
 烏羽色の長い髪に、紺碧の軍装─────

「・・・・・・・・・・そう、ひ」
 
 正直、自身の目を疑った。

 何故彼は、此処にいるのだろう。

(まさか)
 
 いや、そんなはずはない。
 自分はもう、曹魏を去らなければならない身なのだから。
 期待などすれば、また痛い目を見ることになる。


「・・・漸く起きたか、三成」

 
 三成の独白が聞こえたのか、曹丕が顔を上げた。その面持ちからは、僅かに呆れたような色が見て取れる。

(漸く・・・?)
 
 ということは、曹丕は今来たわけではなく。
 大分前から此処にいたというのか。

「・・・どうして・・・・・」
 
 呆然としたまま三成が呟くと、近寄って来た曹丕が隣に───少し距離を空けて───座った。
 暫く言い淀むような素振りを見せてから、彼は長い溜め息を吐き出す。


「─────朝議では、私に非があった」

 
 その真率な言葉に三成が驚いて顔を見つめると、曹丕が歯切れ悪そうに先を続けた。

「気が立っていたのだ。・・・・・実は、お前を信長の下へ向かわせなければならぬ」
 
 曹丕の話によると、自分は信長からの援軍を迎えるための案内を任せられているらしい。万一の内応を配慮してか、秀吉の忠臣である三成の名を挙げているのだと言う。

「一度あちらへ帰ってしまえば、お前は二度と戻って来ないやもしれぬと、そう覚悟を決めていた。
だが、貴様の漫ろな態度を見ていたら、急に腹が立ち─────・・・おい、三成?」
 
 膝に顔を埋めてしまった三成に、曹丕がやや動揺した声音で問いかける。

「・・・・・いいのだな?」

「何がだ」

「俺は、また、ここで・・・」

 少しだけ、間が空き。



「─────ああ、当たり前だ。石田三成以上の参謀はおらぬ」

 
 
 捨てられたわけではなかった。必要とされなくなったわけではなかった。
 
 まだ、曹魏にいられる。
 曹丕の隣で、同じものを目指していられる。
 
 ただそれだけのことなのに、安堵感で胸が一杯になった。

(・・・俺らしくもない)

 泣いてはいなかった。ただ、それに近い衝動には駆られていた。

「・・・・・三成、泣いているのか」

「─────ありえんな」
 
 揶揄されるのかと思い、三成はぱっと顔を上げる。
 すると眼前では、極微かだが曹丕が笑みを浮かべていた。

「その方が、貴様らしい」
 
 そう言うと曹丕は、三成の頭に掌を乗せてきた。

(ああ、その顔は、先刻の)
 
 やめろ、と呟きながら三成は払おうと手を上げる。
 
 だが、その手は零れる涙を拭うために当てられ。
 滲んでしまった視界では、曹丕の反応は判らなかった。





−弐−