外界は打って変わり、冷えた夜霧は穏やかだった。鼻腔から吸い込む度脳髄を刺し、肺腑の底へと重々しく沈降していく。
客庁へと敷かれ明媚な庭園に面した回廊は、数人の女官と擦れ違ったこと以外はいたって閑散としていた。
(夜風にでも当たれば、鎮まるかと思ったのだが)
会堂の間から遠ざかれば遠ざかるほど、曹丕の苛立ちは募るばかりだ。
耳につく歓声が波となって迫り、胸の内を掻き乱す。どこから湧くのかも解らない、やり場のない憎悪がただただ渦巻くのだった。
「奇妙なものだな」
肩を並べて歩く三成が、ふっと、笑みを溢すかのように呟いた。
「何が可笑しい」
「いや・・・
まさか史書で読んだ古将の祝いの席に参列するなど…思ってもみなかった」
眉を潜めている曹丕に、彼はそう答える。
─────史書で読んだ古将
その言葉を聞いた瞬間、曹丕の中で絡糸が解けた。
(・・・・・・・・・そうか)
なぜ、これほどまでに怨嗟を抱いているのか。
その理由がようやく解った。
自分たちの間には、広大な時間が横たわっている。
決してなくなることがない、高く、深い、隔たりが。
ずっと傍に置いていたいと欲する、その思いが報われることはない。
だからこそ、孫策と大喬の幸せそうな表情が許せなかった。それを囲んで見守る者たちの、安穏とした空気も。
完全に、子供染みた八つ当たりだ。
この混沌とした世が元に戻っても、愛別離苦を味わうことのない、全ての者への。
矛先を向けるのは不当だと、解ってはいるのだけれど。
「お前もこれからは、祝ってみてはどうだ?」
「何・・・?」
半ば冗談のつもりで言ったのだろう。三成の口調は軽く、どことなく自嘲気味にも聞こえた。
だが、曹丕には三成が揶揄したその意味が分かっていた。
(そうだ、私には甄が)
蔑ろにしているわけではない。ただ、彼女は一人の正妻という存在であり、『愛する者』とはまた異にするような気がするのだ。
己の方から見初め、交わした夫婦の契り。
しかし彼女のその美貌ゆえか、いつかは誰かに奪われてしまう─────自分を裏切る時が訪れるのではないかと、いつも心が安らがずにいた。
独占欲や猜疑心も、形を変えた『愛』の一つだとは思う。
だが、初めてだったのだ。
相手を大切に思うがため、触れるのを躊躇うということを知ったのは。
心を通わし背を預けるということが、こんなにも心地よいものだということを。
「・・・貴様こそ、心を許した妾はおらぬのか」
試すかのような曹丕の問いに、三成が驚いて顔を見上げてくる。
その双眸には、非難と悲嘆の色が浮かんでいた。
しかしそれも一瞬のことで、何事もなかったかのように消え去ってしまう。後には常と変わらない、漆黒の瞳があった。
「貴様と違って、俺は側室を持つ気はない。
だが・・・全てを共にしようと思える者が現れた、その時には・・・・・・・・・
─────その者を正室に迎え入れるつもりだ」
そう淡々と告げる声音は、何かを押し殺しているようでもあった。
視線を外した三成を、曹丕は依然として黙視し続ける。
ただ、それは、と三成が微かに呟いた。
しかしそれ以上は紡がれることはなく、再び訪れた静寂が辺りの音という音全てを呑み込んでしまった。
(正妻ただ一人を寵愛しようとは・・・・・貴様らしいな、三成)
しかし頑なな彼だからこそ、その恋慕の情は何物よりも強く、易くは得難いのかもしれない。
一途な想いが注がれる先に、決して自分がいることはないけれども。
(貴様が愛するという者の顔が見たい)
それすら、己にはなし得ないことだが。
こうしてただ立ち並んでいるだけでも、自分たちの間には千と半も違う時が流れている。
どうすることもできない、断絶の深淵。
三成が自分を好いていることは知っていた。
だが、一度囚えてしまえば、想いを伝えてしまったならば。その深い深い闇の底へと引き擦り込んでしまうのではないか。
そんな不安が、ずっと頸木となっていた。
「三成」
部厚い沈黙を破り、曹丕が口を開く。
「元の世に戻ったのち、もう一度、その史書とやらを読んでみろ」
「・・・なぜだ?」
訝しむ彼の声音には、明らかな狼狽が窺えた。
どうしてそんなことを言うのかと、まるで責めるかのように。
「─────お前のために、詩を書こう」
自分にはそれしかできない。
けれど。
(この身が朽ち、千と半という膨大な時が流れ、お前が私を思い出す時)
詩に込めた想いが、伝わればいい。
伝わるだけでいい。
(お前の想いに答えるとしよう)
「・・・・・・・・・・曹・・・丕・・・?」
掠れた三成の呼びかけに曹丕は応じないまま、踵を返した。立ち尽くす彼に背を向け、長く伸びる回廊を進む。
ただ、淡々と。
振り返ることもせずに。