「─────曹丕・・・眠れないのか」
迎賓用の離れ座敷。
四つ角に置かれた高灯台の薄明るさを纏い、窓辺に腰掛ける人影が一つ。解かれた漆黒の長髪が、てらてらと濡れている。
「三成・・・か。お前こそどうした、こんな夜半過ぎに」
座る姿勢を変えないまま、曹丕は夜陰に注いでいた視線を三成へと向けた。
「頼まれていた帳簿だ。本当は明日の朝にでも渡そうと思っていたのだが・・・慌ただしくなるかもしれぬからな」
納得したような、けれど何処か見透かしているかのような笑みを浮かべられ、三成は急いで付け加える。
「勘違いするな。言っておくが、たまたま外に目をやったらお前の部屋の灯りがついていたからで・・・」
「─────今まで、世話になったな」
思いも寄らない言葉に遮られ。
三成は思わず目を見張った。
「曹魏のために力を尽くしてくれたこと、礼を言う」
今まで自分は魏軍に助力し続けてきたが、果たしてそれがどれだけの利となっているのか。これと言って自己弁護できるような功績もなく、ずっと疑問を抱いていた。
しかも、生来、他人を誉めることなど滅多にない曹丕だ。
動揺と、いくらかの安堵と、そして認められた嬉しさで。三成は自分の顔が赤く染まったのを感じた。
形容し難い感情が胸の中で疼き始める。
それを振り払うかのごとく、三成は平静を装い常と変らない受け答えをした。
「─────貴様が人を誉めるなど、気味が悪い」
何喰わぬ顔で、手にしていた木簡を文机の上に置く。
杭瀬川、夷陵・・・山崎。
几帳面な三成らしく、これまで全ての戦における軍費が事細かに記録してある。
(懐かしいな・・・・・)
寝首を掻こうと妲己の参謀として荷担してから、遠呂智を二度屠るまでのひと
ずっと、曹丕と共に戦場を駆け抜けてきた。
懐旧の情を呼び起こしながら、ぽつり、と三成は呟く。
「・・・遂に、明日か」
少し間を置き、ああ、と曹丕が首肯した。
「古志城の大気中には、大破した遠呂智の分子が混在していると聞く。
仙界の力でそれの持つ妖力を増幅させ、再び時空間に歪みを開けると女媧が言っていた」
「・・・・・・・・・・流石は・・・人智を超えた仙人たちだな」
「ふ…」
三成の唖然とした口調に、曹丕が口角を上げてみせる。それにつられるかのように、三成も苦笑を漏らした。
夜中に男二人が薄笑いを浮かべているなど、傍から見れば不気味以外の何ものでもないだろう。
だが、こんなたわいもない寸時でさえ、空が白めばもう二度と手にできなくなってしまう。
そう思うと、何故かひどくやり切れなくなった。
(・・・そうか、もう・・・・・)
「─────曹丕、少し外へ出ないか?」
唐突な三成の問いに、曹丕がその真意を推し量るような視線を投げかけてくる。
(・・・!!?俺は、何を言って・・・・・)
無意識のうちに紡いだ言葉に、自分でも驚いてしまった。
外に、などと。
これではまるで、もっと共に過ごしたいと自分から言っているようなものではないか。
肌に感じる居心地の悪い空気に耐え切れなくなっていると、不意に曹丕が口を開いた。
「─────ならば、これを羽織れ」
「・・・これは・・・・・」
三成が手渡されたのは、衣桁に掛けてあった曹丕の外套だった。
「その格好では、感冒を患うやもしれぬ」
確かに自分は、寝巻き用の長襦袢一枚。季秋の夜長には些か涼し過ぎる身なりだった。
「そうとでもなれば、私が貴様の母君から叱責されかねん。大坂城を仮宿としてお借りしている今、これ以上のことはできぬであろう」
そう言いって曹丕は障子を開け、縁側へと腰を下ろす。
「・・・おねね様は母親ではない」
その背を見つめながら、三成は彼の紺碧の羽織を握り締めた。
(俺は馬鹿か・・・一体何を期待していたんだ)
胸に湧いた淡い気持ちは消え、腹の内で自身を嘲る。しかし突き返して風邪でもひけば、それこそお笑い種だ。
恥辱をこらえ、三成は言う通りに肩から外套を掛ける。
曹丕の、好んで常用している香木の臭いがした。
身体中が彼に包まれているような心持ちがし、気恥ずかしさを覚えてしまう。
(俺はいつからこんな女々しい奴に・・・)
自身をそう叱咤しつつ、三成も曹丕の隣に肩を並べた。
見張り番以外は皆寝静まった様で、城内は人の気配を感じないほど深閑としていた。
庭園の池には波風一つさえ立たず、水面に反転した望月だけが微かに揺らぐ。
まるで静止した風景の一部の様に、二人の間に暫し流れる、沈黙。
先に口火を切ったのは、やはり三成の方だった。
「・・・・・よかったな、帰ることができて」
「─────ああ」
あっさりと、常と変らない従容とした口調で答えが返ってくる。
(・・・・・たった、それだけか?)
夜明けを迎えたならば、再び世界は平穏を取り戻す。
あるべき姿へと形を変えて。
さすれば、この思いはどうなってしまうのだろう。
今までのことは、全て何もなかったことになってしまうのか。
元の時代へと還り、互いが、別々の岐路を選んだとしても。
決して交わることのない、違う道の上に立ったとしても。
果たして自分は、曹丕のことを思い出すことができるのだろうか。
記憶の中で、彼は生き続けてくれるのだろうか。
(もう二度と、会うことはないというのに)
他に言うべきことはないのか。
少なくとも自分には…だからこそ、こうして少しでも長く共に過ごしたいと。
それとも。
心が通じたと思っていたのは、自分だけだったのだろうか。
途端、三成の中で怒りに似た感情が芽生えた。
「そうか、解った」
三成は言葉を吐き捨て、勢いをつけて立ち上がる。
「よかったな、ようやく小煩さい俺と離れることが出来て。せいせいすると思っているのだろう?」
「・・・三成?」
「邪魔をした」
曹丕の顔を一度も見ないまま、三成は踵を返した。
「待て、三成」
その腕を強く掴まれ、引き止められる。
「先程から貴様は、何を言っている?」
「・・・・・・・・・・
「何がだ」
「─────なぜこの俺がっ・・・俺ばかりが・・・これほど悔やまなければ・・・!!」
募る苛立ちを、抑えることが出来なかった。
引かれた手を振り払い、曹丕を振り向く。
「抱け、曹丕」
自暴自棄気味に言い放った言葉に、曹丕が目を見張る。
感情に、完全に呑み込まれた今、まともな思考力を三成は失っていた。
(もう二度と会うことがないのならば、いっそ・・・・・)
否応でも、忘れ得なくしろ。
「─────『一期一会』」
おもむろに、曹丕の低い声が発した四字の箴言。
真っ先に拒絶されるだろうと身構えていた三成は拍子抜けする。
「一生の内に、一度限りである出会いのことを指すと、お市から耳にした」
(それが何だと言うのだ・・・。ただはぐらかしているだけか?)
口を噤んだ三成に、曹丕は言葉を続けた。
「くだらん。空言に過ぎぬ。
真に唯一無二の存在だと感ずるのであれば、何としてでも再会しようと図るのが当然であろう。そうせぬのは、口先だけの愚か者だ」
「・・・貴様はつまり、俺を馬鹿だとでも言いたいのか」
「そうは言っておらぬ」
曹丕は三成と同様に腰を上げると、対峙するように体の向きを変える。
両眼を見据えられ、三成は内心狼狽えてしまった。
「華北を統べる魏王、曹孟徳の長子にも背負うものはある。天下の民がいる限り、私の使命を果たさねばならぬ。
三成、お前も秀吉の下、恩義を返すのであろう?」
「・・・っそれはそうだが・・・」
「死ぬな、三成」
一切の拒絶を許さないような、そんな所願だった。
日頃泰然自若として、酷薄そうな顔つきをしている彼の目の奥には、確かに『情』のようなものが湛えられていて。
三成は言葉を失ってしまった。
「されば、お前はいつか私に会うことができよう」
「・・・どういうことだ」
尊大な物言いに、三成は怪訝な表情を浮かべる。
そんな彼を見やり一笑した曹丕は、言葉を改めた。
「もう一度、お前に会うため・・・いつか、お前の世に立つ。
必ずだ、誓おう」
(そんなこと・・・不可能に決まっている)
そう解ってはいるものの、彼が言うと、本当に為し得てしまうのではないかという気がするのは何故だろう。
あの覇道を指標とする、魏王朝初代皇帝となる曹子桓だからか。
(俺はこいつのこういう所に・・・不覚にも、惹かれてしまったのだ)
横暴で、捻くれていて、自分と負けず劣らず口が悪く、敵味方容赦ないけれど。
己の信念を貫き通し、毅然として何者にも屈さず、是非を冷静に見定める力がある。
自身に及ぶ危険を顧みず、小覇王孫策の逃亡を見逃し、曹丕には器がないと乱を起こした夏侯惇らをもまた許した。
(だが、俺は知っている。本当は、お前が─────)
曹操ではなく、お前が。
誰よりも仲間に信頼を置き、彼等を守るが為、偉父の影では自らの手を汚し背負い込んでいる、と。
(フ・・・俺と似て素直じゃないからな)
胸の辺りが締めつけられ、形容し難い感情が湧き起こる。しかしこれは、決して同情心などではない。
自分が、ずっと側にいてやりたかった。
いかなる状況でも気丈さを装うことしか知らない曹丕の、辛苦や挫折、全てを共有し、少しでも肩の荷を軽くしてやりたかった。
(・・・・・すまない)
俺はお前見捨て、何もしてやれないというのに。
それでも、お前は。
こんな俺でも、会いたいと願ってくれるのか。
自身の浅はかさと利己心に嫌悪を覚え、三成は額に当てた拳に柳眉を寄せた。
(俺は、どうすればいい?)